【横手城】
室町時代の後期、豪族の小野寺氏が築城したのが始まりといわれる。戦国時代 (日本)|戦国時代には、小野寺配下
の横手氏・大和田氏・金沢氏が横手城を拠点にして反抗したが、これは鎮圧されている。
その後、小野寺氏は横手に本拠を移した。
関ヶ原の戦いの時の城主・小野寺義道は、徳川家康に西軍方とみなされた。1601年に改易され、一時的に最上氏
の手に渡る。1602年、秋田に佐竹氏が転封されてくると、横手城も佐竹家の所有となる。
佐竹氏は一国一城令を実質的に無視。横手城を改築して、佐竹一門の戸村氏などを城代(所預)として任命、配置
する。戸村氏は代々十太夫と名乗った。
石垣を用いず、代わりに斜面に敵兵が滑ってよじ登れないように韮(ニラ)を植えたため、韮城とも呼ばれた。
江戸時代末期、戊辰戦争の際には、東北地方では佐竹氏は孤軍官軍側につく。仙台藩、庄内藩の軍勢が戸村大学が
籠城する横手城を攻撃。1868年8月11日の夕方、落城する。城は廃墟となった。
昭和に入り、太平洋戦争後、郷土資料館と展望台として模擬天守が建築された。しかし本来横手城に天守はなかった。
ところが横手音頭に歌われたり、かまくら祭りなどの写真に度々登場したことから、すっかり天守は横手のシンボル
となっている。