【与板城】
与板城は二つあった。いわば前期と後期と言った方が分かりやすいかもしれない。
与板は戦国時代、上杉謙信の重臣、直江氏三代(直江実綱、直江信綱、直江兼続)の城下町である。
居城の与板城は与板町与板に位置する標高104mの山城で県の文化財に指定されている。
本丸跡まで遊歩道が整備され、ハイカーで賑わう。慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封で直江兼続も米沢城
に移り廃城となった。
後期の城郭は江戸時代になって、牧野氏、井伊氏時代の与板陣屋の時代を経て、宝永3年(1706年)掛川城から
移封した井伊氏6代藩主井伊直朗の時、城主格となり、築城を開始。
7代藩主井伊直暉の文政6年(1823年)、与板城が完成した。
城郭は与板町与板長丁、与板町ふれあい交流センターの位置にあった。
現在、「与板藩城館跡」の碑、門などが復元されている。
慶応4年(1868年)戊辰戦争の際、藩主・井伊直安は早々に新政府軍についた宗家彦根藩にならって、いちはやく
新政府軍に帰順した。これに対し、奥羽越列藩同盟軍は「勤皇の与板藩」を攻撃するため、地蔵堂、大河津から
与板に進撃した。与板藩兵と同盟軍との間で激戦が展開された。
5月28日戦火で与板城が焼失したが、大手門(搦手門)だけは免れた。