【大和郡山城】

10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。
郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂
高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、
奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用
された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」
(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。
その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。

<沿革>
郡山城の最初の攻城戦は、永正3年(1506年)の夏、赤沢朝経軍が大和国に侵攻して、各諸城を落城していった。
この時、宝来衆、西京衆、生馬衆、そして郡山衆らを称して西脇衆として郡山城に立て篭もった。同年8月24日赤沢
朝経軍は数千の兵力で取り囲み、郡山城兵も城を出て戦ったものもあったが、圧倒的兵力の赤沢朝経軍は、多くの
武将が討ち取り、その中には宝来九郎なども含まれた。
その後郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり離合集散を繰り返してきたが、
1559年(永禄2年)松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して
筒井氏から離反していく。

筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、
元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍
は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍
と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。
その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆
はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城
をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成する。織田信長は天正8年
(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。
『郡山城と城下町』によると「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と解説している。
1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を
集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も1584年(天正12年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣
秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。

豊臣時代初中期
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。
秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を
移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている
本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由と
して、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。
また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、『郡山城と城下町』によると「伝承でいわれるような五層
の天守閣が建っていたかどうかは疑問です」とし、建築学的にはもう少し小さなものではなかったとしている。
また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。
『郡山惣町日記』によると、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、
紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の
「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。
豊臣秀長書状は壽福院に宛てた書状で、内容は豊臣秀長が着任した翌天正14年(1586年)3月筒井順慶の廟所や山林、
筒井城の跡地等を壽福院に与える、としている。筒井定次が伊賀国に入封後、筒井城破却後の跡地や周辺の山林は壽福院
に与え、筒井城があった添下郡の筒井村周辺は豊臣秀長が着任後も大きな変化はなかったと考えられている。
1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も1595年(文禄4年)に急死すると、大和大納言家は断絶し
100万石城の時代は終了する。

●豊臣時代後期⇒江戸時代初期

五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁
で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原後に増田長盛は高野山に追放
となり、郡山城の建築物は徳川家により伏見城に移築された。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。
徳川家康は筒井一族の筒井定慶には1万石と、その弟筒井順斎には200石を与え、その上で与力衆36名を預けられ郡山城
に入城した。その後大坂冬の陣が終結し大坂城の内堀が埋め立てられ、再び決戦止む無しとなったのか、豊臣方の使者
細川兵助が郡山城に出向き合力を求めてきた。豊臣方が出した条件は「兵1万を直ちに送り、戦勝した時には筒井定慶
には大和国を、筒井順斎には伊賀国を与える。但し徳川方につくのであるならば攻撃を開始する」という内容であった。
細川兵助は必死の説得を続けたが、途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に高恩を感じていたのか申し出を
断った。
元和元年(1615年)4月26日、豊臣方は直ちには大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2千兵の攻城軍を出軍させ暗峠を越え
郡山城に迫ってきた。これに対して筒井定慶軍は、筒井順慶時代から恩義のある浪人衆、農民衆、商人衆を集結させ、
数だけは1千兵程度になった。
豊臣秀頼軍は松明を掲げながらの夜間行軍で、筒井定慶軍は戦馴れしておらず、実兵よりも多くの兵に見え、3万兵の大軍
と筒井定慶に報告した。このような大軍では迎撃するのは不利に思えたのか、福住中定城へ早々に落ち延びた。
これに「腑甲斐無し」と激怒したのは弟の筒井順斎で徹底抗戦を命じたが、総大将はすでに落延びており従う者は殆ど
おらず、自身もわずか4,5名の共の者と興福寺に落ち延びた。
翌27日未明、豊臣秀頼軍は九条口と奈良口の2隊に分け攻城を開始した。郡山城にはわずか残兵が残っており30兵が討ち
取られ、城下町の各方面に火が放たれた。その後豊臣秀頼軍は奈良方面に進軍し徳川軍の備えとしたが、徳川軍の水野勝成
隊が奈良方面に進軍しているとの報を受けると大坂城に引き上げていった。
一方福住中定城で1000兵余りで防備を固めていた筒井定慶軍は、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、一戦もすることなく
郡山城を捨てたことに後悔し、大坂城が落城してから3日後の同年5月10日、弟の筒井順斎に遺書を残し切腹した。
しかし『戦国合戦大事典』によると「表向きは自害と称して、蟄居するうち病死したという説もある」という別説も紹介
し、筒井順斎も兄を追って自殺したと伝えている。

松平氏・本多氏時代

郡山城の戦い後は、軍功のあった水野勝成が同年7月19日三河国の刈谷城から移り6万石で入城し、荒廃した城郭の修築
を行った。石垣や堀の修復は公儀普請として、本丸と、二ノ丸、三の丸の一部と、家中屋敷の修復は水野勝成の手で
行われた。しかし水野勝成は修復途中で元和5年(1620年)8月に備後福山に転封となった。その後松平忠明が12万石で
入城してきた。松平忠明も郡山城の復興に取り組んでおり、二ノ丸屋形の造営や、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門
などが移築した。しかし松平忠明も1639年(寛永16年)に姫路城に移っていった。

次に郡山城に入ってきたのが本多政勝で15万石で入部した。この時に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分
は完成する。また武家屋敷、町屋とも発展し延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え郡山城の最盛期と
なる。しかし、1671年(寛文11年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続がおき、息子二人は徳川幕府の
裁定で分割相続された。その後郡山城には明石城から松平信之が8万石で入城した。1680年(延宝8年)城下町に大火が
おこり670軒が焼失した。松平信之は老中に任命されると下総国に移っていった。本多忠平が12万石で入城し、その後
本多氏が何代か続いたが享保8年(1723年)11月27日が本多忠烈が8歳で死去すると本多氏は断絶した。

柳沢氏時代

その後1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲府城から移り15万石に封ぜられ、城下町の整備を努めた。
柳沢氏が入部して以降、郡山城は安定期を迎えようとしていたが、1787年(天明7年)に大飢饉となり米騒動が起こり、
城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎとなった。また安政5年(1858年)12月1日二ノ丸付近から出火し、
住居関係の建物群はすべて焼失する大火にみまわれた。1861年(文久元年)に再建に着手するが、1870年(明治3年)
藩は今後城の修理を行わないことを出願し政府に聴許され、1873年(明治6年)郡山城は破却された。このとき櫓・門・
塀などの建築物は入札によって売却され、運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。
付近の永慶寺には城門が山門として移築され現存している。
また柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には
多くの花見客でにぎわう。

●近代

城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿
をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡と
なり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が
市民の寄付などにより復元された。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。