【涌谷城】
元々は南北朝時代に奥州探題として下向した大崎氏から始まり、室町〜戦国期にその一族であり家臣であった涌谷氏
が領治していたと言われるが、大崎氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかった為、天正18(1590)年に滅ぼされ、
涌谷氏も運命を共にした。その後一時、豊臣の家臣木村氏が封ぜられたが、葛西・大崎の一揆が発生、その平定後は
伊達領となって亘理氏がこれを治める事となった。
徳川家康による天下平定後は、元和元(1615)年の「一国一城令」により一国又は一藩に一城が原則となり、全国で
多くの城郭が破却された。そこで城を持てなくなった大名は「陣屋」と称する比較的防御上手薄な構えで築城する事と
なった。
然し領地が広く家臣も多い大藩には支城制を敷く特例が認められ、領内には主城である仙台城と奥州に睨みを利かせる
ため特別に許された白石城ほか 21ヶ所の要害が築かれ、明治維新まで存在した。
(仙台藩の他にも支城制をとった島津藩の「麓(フモト)」、土佐山内藩の「土居構(ドイガマエ)」等がある)涌谷城を
近世城郭として整備したのは2代重守の時で、3代定宗に至って本格的な城郭として完成した。この頃には伊達姓を
許され、2万石を領する事となった。4代伊達宗重の時所領争いに端を発し、幕府への訴訟にまで及ぶ勢力抗争に
拡大する事件が発生。
俗に「伊達騒動」と呼ばれ後々迄語り継がれるようになった。