【若松城】
至徳元年(1384年)、蘆名7代の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりと
される。色々な説があるが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、とその城下が成立していた。
以後代々蘆名氏の城であった。
伊達政宗は蘆名氏と連年戦いを繰り返した。天正17年(1589年)政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め
蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし政宗は、天正18年(1590年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を
整備した。
文禄2年(1593年)望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
慶長3年(1598年)氏郷の子・蒲生秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮城に移封
された。越後国春日山城主・上杉景勝が120万石で入封。慶長5年(1600年)関が原戦にて西軍に加担した事に徳川
家康は上杉景勝を30万石に下げ、出羽・米沢城に移封した。
翌6年(1601年)蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627年)嫡男の蒲生忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の
次男・蒲生忠知が後嗣となり伊予国松山城に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封。
子の加藤明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、慶長16年(1611年)に起きた会津地震により倒壊した天守を
今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
寛永20年(1643年)加藤明成は改易され、出羽・山形城より3代将軍・徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で
入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。
慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には会津戦争にて会津勢の立て篭もる若松城は1ヶ月の間持ちこたえ、板垣退助勢
に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。
この「会津戦争」での白虎隊の悲劇は余りにも有名である。
戦いに敗れ敗走してきた白虎隊士は飯盛山で見た光景は、「城が。。。城が燃えている。。。」であった。
(実際には城ではなく、城下町が火に包まれていたのだが)
もはやこれまで、と隊士は相次いで自決。
当時の様子はただ一人生き残った飯沼定吉氏によって後世に語り継がれた。
なお、戦後は天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。