【宇和島城】
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80
メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、
藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を
廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でも
ある。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建
した当時の形が活用されたと見られている。五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の
城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って
記された。
●天慶4年(941年)
警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。
●嘉禎2年(1236年)
西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。
●天文15年(1546年)
家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。
●天正3年(1575年)
家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。
●天正13年(1585年)
豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。
●天正15年(1587年)
隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。
●文禄4年(1595年)
藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。
●慶長元年(1596年)
藤堂高虎、大改修に着手。
●慶長6年(1601年)
現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に
移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。
●慶長13年(1608年)
富田信高が伊勢国より転封し入城。
●慶長18年(1613年)
信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。
●慶長19年(1614年)
伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)・伊達秀宗が10万石で入封。
●元和元年(1615年)
伊達秀宗、入城。
●寛文2年(1662年)
2代藩主・伊達宗利、老朽化した城の改修に着手。
●寛文11年(1671年)
改修竣工。
●明治4年(1871年)
明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。
●明治33年(1900年)頃
櫓・城門などが解体される。
●昭和9年(1934年)
天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
●昭和12年(1937年)12月21日
国の史跡に指定される。管理団体は宇和島市。
●昭和20年(1945年)7月12日
太平洋戦争の空襲により大手門焼失。
●昭和24年(1949年)
伊達家、天守と城山の大半を宇和島市に寄贈。市の管理下に置かれる。
●昭和25年(1950年)
文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定される。
●昭和35年 - 昭和37年(1960年 - 1962年)
天守を解体修理。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。