【宇都宮城】

築城年代は平安時代に遡る。藤原秀郷もしくは藤原宗円(下野宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。
もともと宇都宮には宇都宮二荒山神社が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州
合戦に赴き、その功によって当社座主の地位と鬼怒川流域一体の支配権を与えられた。以来、鎌倉時代から
室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城
(居館)となり、北関東支配の拠点となった。
この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。
戦国時代には後北条氏や日光山の侵攻を受け一時はその一派によって占拠されたこともあったが、小田原の役
に続く宇都宮仕置ではその舞台となり、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した。
宇都宮氏は所領を安堵され羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如
改易された。
宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して
宇都宮城下の商業整備を進めた。
慶長6年(1601年)には関ヶ原の戦い後の京警備で功を認められた奥平家昌が10万石で入り、かつて宇都宮氏
の菩提寺の一つであった田川対岸にある興禅寺を再興するなど城下町の機能を復興した。
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と
城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し湧水を張って幾重の水濠
とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。こうして正純は宇都宮城を近世城郭と
する一方、城下の日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を街道
沿いに再配置するなど城下の防御能を向上させると同時に、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設し、また
宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど日光社参に関する設備向上を促進した。
この大改修工事の結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。
宇都宮城改修に際し、正純は江戸幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わり
としたが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は
改易された(宇都宮城釣天井事件)。
正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市
の礎となった。その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主
としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。
宇都宮は明治元年(1868年)戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮
城の戦い)。明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなり、荒廃した城跡の形跡は益々失われて
いった。