【上田城】

甲斐武田氏の有力武将であった真田昌幸は、主家滅亡後に織田信長に臣従し滝川一益の与力となるが、上野に乗り
込んだ滝川一益が神流川の戦いで北条氏に敗退して以後は、周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で揺れ
動くことになる(天正壬午の乱)。滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り
換え、上田・小県地方制圧の拠点として天正11年(1583年)に上田城の築城に着手する。
この時には徳川の支援を得たが、敵対する北条氏による上州方面での攻勢みならず、北方の上杉氏からの妨害も
受けている。
しかし翌年には北条・徳川の和議に反発して徳川と決別、当初は北側に予定していた大手(防御正面)を対徳川を
想定して東側に変更している。
天正13年(1585年)、次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を
迎え撃ち、撃退に成功する(第1次上田合戦)。
慶長5年(1600年)には徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱した昌幸が、石田三成の西軍に組しておよそ2000の
兵力で上田城に篭城。徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、前回に続いて守り抜いた(第2次上田合戦)。
この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、関が原の戦いに間に合わないという大失態を演じてしまう。
慶長6年(1601年)、真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。
徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。その為、信之時代には上田城
は存在しておらず、信之を上田城主とするのは正確ではない。
元和8年(1622年)、真田家は同国松代に移封され、代わった仙石忠政により寛永3年(1626年)に再建が始められ
たが、2年後の寛永5年(1628年)忠政の死により城普請は中断される。以後仙石氏三代の後は松平氏が明治維新
まで城主を勤めるが、本格的な再建は行われなかった。
明治7年(1874年)、廃藩置県により廃城となっていた上田城の土地、建物は民間へ払い下げられる。
北櫓と南櫓は上田遊郭に払い下げられ、一つの建物に連結されて使用された。
昭和に入って、市民の運動によって買い戻され、現在の場所に再び設置された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。