【津山城】

城郭の形式は梯郭式平山城。日本三大平山城のひとつ。津山盆地の中央部に位置し、城の東部を流れる吉井川支流
の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する
藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。
往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並び、明治初頭にその様子を撮影した
写真が残されている。また、近隣の津山郷土博物館には、文献や古写真に基づいて製作された津山城の復元模型が
あり、往時の姿を窺うことができる。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され、現在は
遺構の石垣や建物の礎石が残り、2002年から2006年までに再建された二重櫓と土塀がある。

現在は鶴山公園(かくざんこうえん)として桜の名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれている。
例年4月1日から15日には城跡公園を中心に津山さくらまつりが催される。

室町時代】
1441年 - 1444年
 美作国の守護大名であった山名教清が、一族の山名忠政に現在の津山城のある丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせた
 のが最初である。しかし応仁の乱で山名氏衰退ののち廃城となる。

【江戸時代】
1603年(慶長8年)
 森忠政が18万6千石で入封し津山藩が立藩。同年、現在見られる津山城の築城に着手。また、城地の名を「鶴山」から
 「津山」に改めた。


1616年(元和2年)
13年の歳月をかけ完成。天守、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ近世城郭となった。


1697年(元禄10年)
森家断絶。広島藩主・浅野綱長の預かりとなる。


●1698年(元禄11年)
松平宣富(越前家)が越後・高田藩より10万石で入封。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで城主となる。


2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。