【鶴岡八幡宮】

康平6年(1063年)8月に河内国を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した
京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。
永保元年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地
である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。
建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請
した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。
鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退したが、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護を受け
大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川
家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の大塔、東照宮も存在した。
徳川幕府崩壊後、明治元年(1868年)3月13日に神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治
政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈
の動きが始まった。同年中に大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分される
か散佚した。
ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。
鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。
また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で消失したが、外国人観光客が撮影した写真やスケッチが残されて
いる。