【富山城】

天文12年(1543年)に新川郡への進出を目論む越中守護代の神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城した
とされるが、近年の発掘成果により室町時代からの遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡ると思われる。
富山の地は越中国のほぼ中央に位置し、飛騨と北陸道を結ぶ交通の要衝にあたり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、
一向一揆等の勢力の争奪の的となり、抗争が繰り返された。
慶長5年(1600年)以前に成立の『富山之記』には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子が詳しく記されて
いる。
天正10年(1582年)織田信長の家臣佐々成政が富山城主となり、大規模な改修を加えた。その際に3つの鯱を持つ
五層の天守が建てられた。また、神通川の流れを城の防御に利用し、水に浮いたように見える為に「浮城」の異名
をとった。当時の神通川は富山附近で東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は作られた。
神通川改修後の旧河道は松川と呼ばれ、今も富山城址の北側を流れる。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と袂を別けた佐々成政は、''天正''13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に
富山城を攻囲されて降伏し(富山の役)、富山城は破却された。やがて越中一国が前田家に与えられると、前田
利長が大改修を行い隠居したが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失した為、高岡城を築いて
移った。
寛永16年(1639年)、加賀藩三代藩主・前田利常は、次男・前田利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立
した。利次は、万治4年(1661年)頃から廃城となっていた富山城を修復し、以後富山前田氏13代の居城として
明治維新を迎えた。 
修復後の富山城には天守は無かったが本丸に三基の二層櫓が建てられ、主要な城門は渡櫓形式の重厚な構えであった。
江戸時代の古図には天守の記載がないため、天守は築かれなかったとみられる。
昭和29年(1954年)に戦後最初の模擬天守を建築した。模擬天守の内部は富山市郷土博物館になっている。
なお、この模擬天守は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。