【東光寺】

平安時代の保安2年(1121年)に源義光(新羅三郎)が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、寺号を
興国院とした。その後荒廃し、密教寺院であったが鎌倉時代の弘長2年(1262年)に、配流されていた渡来僧の
蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。「甲斐国志」では再興年を文永年間としている。
また、官寺として執権・北条高時から諸山位に次ぐ寺格を与えられ、五山十刹の次に位置。室町時代の応永27年
(1420年)には、在所不明の大林寺から鐘が移されている。
天文年間には臨済宗妙心寺派に帰依していた甲斐守護・武田信玄による保護を受けて再興され、山号を法蓋山、寺号
を東光興国禅寺と改めた。陣夫役の免除など保護を受けた。この頃の住職・藍田恵青は中興開山と位置づけられて
いる。天文11年(1543年)7月の武田氏のよる諏訪侵攻で諏訪領主・諏訪頼重が甲府へ連行されて自害しているが、
『塩山向獄禅菴小年代記』に拠れば頼重は当寺で自害しているとされ、幽閉されていたと考えられている。
また、永禄8年(1565年)には謀反の疑いをかけられた武田家嫡男・武田太郎義信が幽閉されて永禄10年には死去
しており、裏山墓地には頼重や義信の墓所がある。天正10年(1582年)、織田氏の侵攻で武田家が滅亡すると焼き
討ちに遭い、藍田恵青らも兵火で死去し、諸堂や文書類も焼失。
天文19年4月5日には加藤光政から、慶長8年(1603年)には平岩親吉から禁制を受けている。
江戸時代には徳川氏により寺領と山林の安堵を受けたが、明治の廃仏毀釈の影響を受け、1945年(昭和20年)の
甲府空襲では再建本堂を焼失している。