【龍岡城】
文久3年(1863年)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可
を江戸幕府から得た。
奥殿藩の藩庁は三河国の奥殿陣屋にあったが、領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)は信濃国佐久郡にあり、
佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた。
藩庁の信州への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである。
幕末、国内情勢が緊迫する中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される、領地の狭小な奥殿から
退避する意味もあったという。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形
要塞)を設計する。文久3年(1863年)11月、いくつかの築城候補地の中から田野口村を選定。
元治元年(1864年)3月に建設を開始した(建設開始は文久3年(1863年)11月ともいう)。
総工費は4万両。慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが
完成した。完成時には領民や藩士にもこの新型城郭の見学を許している。しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任し
公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる状況のもとで石垣工事は簡略化されるなど、未完成部分も多いと
される。
1934年(昭和9年)に国の史跡に指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。