【館山城】

館山城は天正16年(1588)安房の名門、里見氏9代目、義康が築き本拠とした。
里見氏の先祖は清和源氏で上野国(群馬県)新田荘に住み新田氏を名乗っていたが、新田義俊が上野国里見郷に
移り住み里見氏と称したのがはじめとされる。
里見家基のとき常陸国(茨城県)小原に移り、関東公方足利持氏に仕えたが、家基は永享12年(1440)の結城合戦
で戦死し、その子義美は相模国(神奈川県)三浦に逃れ、やがて三浦氏の援助により安房白浜に上陸すると安房
一国を平定し領土とした。すなわち安房里見氏のはじまりは里見義美である。
やがて上総、下総にも勢力を伸ばし、6代目里見義尭のときはその所領57万石といわれた。
天文7年(1538)小田原の北条氏の攻撃を受け、国府台(現在の市川市)の戦いに敗れ、さらに次の里見義弘の時
永禄7年(1564)にも国府台で再び北条氏に敗れた。
8代目里見義頼のとき本拠の城は岡本城(豊浦町)だったが、北条氏政の軍が迫り、支城の久留里城、佐貫城も
危うくなったので、9代目里見義康のとき館山に城を築き防備を固めこれを本拠とした。
館山は安房国の南端にあり、水陸の要衝であった。城は鏡ヶ浦を眼下に見下ろす城山にあり、山麓に堀をめぐらし、
その外側に武家屋敷や城下町が形成され、方形の城山は階段式になっていて、本丸や二の丸、三の丸などが配されて
いた。
本丸には三層の天守があったと言われているがその後の発掘によって掘立小屋程度のものだったのではと推測されて
いる。。
その後、天正18年(1587)の小田原征伐のとき里見義康は参陣が遅く豊臣秀吉から封領を九万石に削られ、続く、
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い二万二千石の加増となったが、慶長19年(1614)小田原の大久保
忠隣の事件に連座して里見忠義は伯耆(鳥取県)倉吉3万石に転封となり、館山藩は廃藩、館山城も廃城となった。
その後江戸時代の末に、旗本だった稲葉氏が新たに館山藩を立てて、この地に陣屋を築くが、天守は再建されなかった。