【館林城】
築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の
尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)
に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置
を教えてくれたというもの。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を
支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が
10万石で城主となった。
江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは
将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり
威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。
宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と
三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。
城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が
残されており、三の丸には土橋門が復元されている。