【滝山城】

1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。
1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵
から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。
1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。

1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田
信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸
まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が
不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。

なお、近年において齋藤慎一が1561年(永禄4年)春に上杉謙信が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した
形跡があるのに合戦が起きていないこと、同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城
(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、
同年当時滝山城はまだ存在していないとした。齋藤は、小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を
示した朱印状が出された1563年(永禄6年)4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた発給文書が出された
1567年(永禄10年)9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする説
を提示している

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。