【高岡城】
1605年(慶長10年)6月28日、富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年(慶長14年)、富山
城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半を焼失したため、利長は魚津城に移り、
大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰う。
利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を
取り、同時に城下町の造成も始めた。縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされている。
同年9月13日、利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉から
賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。
しかし、1614年(慶長19年)5月20日に利長は死去(享年53)し、隠居城として使われたのはごく短期間であった。
その翌年の1615年(元和元年)には一国一城令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となった
(その代わり加賀国に小松城を築くことがゆるされた)。ただし、廃城時期については1638年(寛永15年)と
する異説もある。
しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点
としての機能は密かに維持された。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様であった。
街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋(定塚町)を移転
して目隠しにしたといわれる。また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える利長
の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられている。
なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがある。
城内におかれた米蔵等は1821年(文政4年)の高岡大火の際にほぼ全焼したが、その後再建され明治に射水郡
議事堂が建設されるまであったという。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。