【高松城】
城郭の形式は平城で、本丸を中心にニの丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、
3重に堀が廻らされていた。
かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入り
できるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。
縄張りは黒田孝高が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。
高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や
物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。
しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路が通り、
ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てらている。最盛期には66万u(約20万坪)
あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587u(約2万4千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀と内堀
には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も
放流されている。
===安土桃山時代===
*天正15年(1587年)生駒親正が讃岐国17万6千石の大名に封ぜられ引田城に入城する。
*同年、引田城は手狭であったので聖通寺城に移る。
*天正16年(1588年)聖通寺城でも不便を感じ、香東郡篦原庄玉藻浦に高松城の築城を開始する。
*天正18年(1590年)高松城完成。
===江戸時代===
*寛永16年(1639年)生駒氏4代・生駒高俊、生駒騒動により出羽国・矢島藩1万石に転封となる。
*寛永19年(1642年)水戸藩初代藩主・徳川頼房の子の松平頼重が12万石で入封。城の整備に着手する。
2代・松平頼常にも改修が引き継がれる。
*正保元年(1644年)頼重、城内の飲料水確保のため水道を造り、城下の亀井・大井戸・今井戸より水を引く。
*寛文9年(1669年)小倉城を模した3層5階の天守が完成。
*同年、頼重隠居。隠居所として城の南西に栗林公園を造築する。
*寛文11年(1671年)松平氏による城の大改修が始まる。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。