【多賀城】

神亀元年創建されたが、文献上の出現は「日本後紀」の839年(承和6年)の記事である。その後天平宝字6年に
藤原恵美朝狩によって修繕されている。780年の伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。
802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、
兵站的機能に移ったと考えられる。貞観11年に陸奥国で大地震が起こり、多賀城でも多くの施設が被害を受けた。
この後復興していったが十世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。
中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年にも陸奥国府が焼失している。
南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王
(後村上天皇)を奉じて東北へ赴き、多賀城を拠点に東北経営を行う。
近年では、曲水の宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、
政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。