【諏訪原城】
永禄12年(1569年)、駿河・遠江を領していた今川氏が武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡し、駿河は武田氏に、
遠江は徳川氏の所領となった。しかし、間もなく両氏は争うようになり、元亀2年(1571年)に武田信玄は遠江
南東部の高天神城を攻撃した。このときは落城させることができず撤退したが、翌元亀3年(1572年)には徳川氏
に大攻勢をかけ、二俣城などの諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た徳川家康を三方ヶ原の戦い
で破った。
翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。
天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道
沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』など後代に成立した史料
のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている(『武徳編年集成』
には永禄12年(1569年)に「金谷城」を築城したとあるが、この城が諏訪原城と同一かどうかは断定できない)。
信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀が3ないし5箇所あり、枡形虎口などの遺構も残る。
城の三方は台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続いている。小山城と共に、大井川西岸の
防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
その後も勝頼は遠江への攻勢を強め、天正2年(1574年)には主要拠点であった高天神城も武田氏の手中としている。
ところが天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に大敗した。徳川家康は直ちに反攻に転じて
三河・遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城にも攻撃をしかけた。
1ヶ月余りの攻防戦が繰り広げられたが、城主今福浄閑斎が討死し、残った城兵は夜半に紛れて田中城に逃亡して落城
した。徳川氏が奪取した日時は、天正3年8月(日付は異同あり)とされる。
攻略後、徳川氏はこの城を拠点に武田勝頼軍の動向を監視・牽制を続け、殊に高天神城への大井川沿いの補給路を
封じたことで戦いを有利に導いた。また徳川氏は武田氏の縄張りをそのまま引き継いだが、この時期に堀や丸馬出し
を更に増強、大手曲輪なども築き、より東海道に近接した縄張りになったと考えられている。
その後、天正10年(1582年)3月、武田氏が滅亡すると牧野城の存在意義が薄れ、天正18年(1590年)に廃城と
なった。
明治維新を迎えると、元将軍の徳川慶喜が駿府に配されると慶喜を慕って随従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃
していた牧野城周辺に移住して開墾し主に茶畑とした。現在も城址一帯は茶畑となっているが、比較的保存状態が
良く、大掛かりな堀や曲輪などが残っている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。