【菅谷館】

鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘
の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を
構えたのが始まりである。

元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられた
というが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。

長享2年(1488年)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、
その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の
旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良
が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。

その後は、天文15年(1546年)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、
小泉掃部助が城代となって守備している。

中世城郭研究会の中田正光によれば、当時の最前線だった松山城を強化する必要から付近の青鳥城や杉山城と共に
この菅谷の旧城も更に築城拡大されたと述べており、全周を覆う堀には多くの折りが使用され、虎口には全て横矢
が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な
縄張り等の特徴を指摘し、このような実戦的な城郭は後北条氏の典型的な特徴であり、それ以外は考えられないと
指摘している。
なお、過去の発掘調査の結果では後北条氏時代の遺物が出土していない為、杉山城と同様に後北条氏進出以前に
廃城になったという説もあるが、発掘調査面積自体が小規模だった為、今後の調査次第では畠山時代や後北条時代
の遺物が出土する可能性も考えられる。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。