【新府城】
甲斐武田氏の居館は、甲府への進出とともに武田信虎により石和・川田(甲府市川田町)から移され、躑躅ヶ崎館
が築かれる。
武田信玄時代の領国拡張で城下の整備が進み、政庁としての役割を持つ府中となる。武田勝頼時代にも整備は行わ
れているが、後背に山を持つ府中は防御に徹しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野、駿河へ
と拡大した武田氏の領国統治にとって不備であったと言われる。後に入府した徳川家康も新たに甲府城を築いて
いる。韮崎は甲府盆地においては北偏りであるが、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったこと、七里岩の
西側を釜無川が、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であったこと、甲州街道・駿州往還・佐久往還・諏訪往還
が交差し釜無川の水運も利用できる交通要衝であったことなどから新城築造が考えられたといわれる。
史料上の初見は、天正9年(1581年)に家臣の真田昌幸へ普請を命じたもので、天正3年(1575年)の長篠の戦い
(設楽ヶ原の戦い)で織田・徳川連合軍に敗北した後、勝頼は領国支配を強化し、穴山信君が織田軍の侵攻に備えて
七里岩台地上への新たな築城を進言したという。
築城は翌天正10年(1582年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住する。
天正10年(1582年)、信濃での木曽義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれて
帰国。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。
勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は
滅亡する。同年6月には京都で信長が横死し(本能寺の変)、武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏の争奪戦(天正
壬午の乱)が起こると戦略上の重要拠点となるが、後北条氏が滅亡すると廃城となった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。