【大阪城】

〜概要〜

通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に
現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害
であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。戦国末期から安土桃山時代初期には石山
本願寺があったが、1580年(天正8年)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および
豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。
徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭する
ように再建したとされる。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。
姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。
現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。

〜歴史・沿革〜

=== 安土桃山時代 ===

上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に1583年(天正11年)、豊臣秀吉が築城を開始した。
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能
が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの
防衛設備が施された。
天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに
用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内
された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えた。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。
1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児・豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権
を実質的に掌握し、五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。

〜江戸時代〜

1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。
そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城
にされてしまう。
秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂
夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫・松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府
直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍・徳川秀忠によって大坂城の再建が始め
られ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が
預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。
江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を
焼失し、以後は天守を持たない城であった。
江戸末期、慶応3年12月9日に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍・徳川慶喜が大坂城
に移り、居城していたが、慶応4年1月3日、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却
し、大坂城は新政府軍に開け渡された。
この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。