【小田原城】

後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰め城としていた。大森氏も、そうであった
と推測されている。三代目の北条氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃を退け、戦国時代屈指の堅城ぶりを
誇った。北条氏の時代に、小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で
取り囲んだ惣構え(これは後の大坂城の惣構えよりも広大である)をもつ、それまで類を見ない大規模な城郭へと
拡張された。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、小田原城惣構えを破壊させている。地方の城郭に
このような大規模な惣構えがあることを警戒していたという説もある。
現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設
されている。関東にしては珍しく、主要部が全て石垣で固められた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣
の城になったのは寛永9年(1632年)から始められた大改修の後のことである。
二代藩主・大久保忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっている。
一時は二代将軍・徳川秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして御家再興がなった大久保氏が
返り咲いた。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
なお、大名となった支藩(分家)に荻野山中藩がある。
また、小田原城は江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に見舞われて、
甚大な被害をこうむっている。
中でも、元禄の地震の被害は甚大で天守・櫓などが倒壊するほどで、天守が再建されたのは宝永3年(1706年)
で、この再建天守が明治に解体されるまで存続したものである。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。