【小谷城】

『浅井三代記』によると「1516年(永正13年)9月28日に着工同年10月20日に完成」という記述がある。
しかし、浅井三代記の記述には疑問点も多く、その後の1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、
浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年)−1524年(大永4年)築城説
が有力である。この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われる。
その後1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃げ出した。

亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。
元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と
織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸
の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)とした。

その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と織田軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部
継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山
へと前進した。しかし、一方で小谷城・丁野城・山本山城と小谷城から琵琶湖まで東西に並んだ支城は落城せず、
小谷城の包囲へは持ち込めずにいた。

1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉の調略に乗って織田方に寝返った。
この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には
越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。
このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣
した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。
焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。

8月12日、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら
浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退する
ところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた(刀根坂の戦い)。信長は嫡男・織田信忠の手勢などを
押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。
翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を
守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。
さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した。

その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられるが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城
を嫌い、1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに長浜城を築城して居城とした。
そのため小谷城は廃城となり、現代に至っている。
1937年(昭和12年)4月17日、国の史跡に指定された。


平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に選定された。