【二条城】

さまざまな二条城>
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、
都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または
「二条城」といった。のちには、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。
室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。
二条城と西院城を平安京の両城ともいう。


1.室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
2.室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。
  ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分が
  わずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず
  条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。

現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から
現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他
の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について
「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと
呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」
について略説する。


<足利義輝の二条御所武衛陣の御構え>
永禄8年、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波家の屋敷跡に自らの城を築いた。
武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の
地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁
長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好・松永らの攻撃を
受け、義輝は自ら太刀を執って奮戦したがあえなく落命した。合戦後、跡地には真如堂が移された。


<足利義昭の二条城>
足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、1569年(永禄
12年)、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは京にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に
成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。
場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を
備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工
奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。
建物の多くは本圀寺から移築された(フロイス『日本史』)。古廐旧管領細川京兆家の一族細川藤賢の旧邸から、
文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭は
ここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。
山科言経は「石くら」に驚嘆している。
石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も
発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。
当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。
なお元亀3年3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。

ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、1572年(元亀3年)、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始
し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌1573年(天正元年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵
する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、
和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。
このとき、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕府の重臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため
置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと
伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。
二条城に残った天主や門は1576年(天正4年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。
1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、
この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館
及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元
されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」
説を記す)が立っている。


織田信長・誠仁親王の「二条新御所」>

織田信長が烏丸−室町の御池上る付近に設けた城館。
信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側
に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。
二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。
前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して空き家と
なっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り
受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。
翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)
に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。
同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と
合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御
能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを
攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼
に帰した。

現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。
付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。
なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため
大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。
この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に
「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を
目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。
また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、
御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。
さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される
同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条」へ「上が」
って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、
この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。
また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。

<羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」
豊臣秀吉も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に
信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている。
皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり
(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。
その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させ
その跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。

聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。
所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)
町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。

<江戸時代の二条城
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。

慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを
開始12月に西国諸大名に
造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清
が任じられた。


慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。

慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。

慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、
同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において
重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が
踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。


慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。
この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意した
ともいわれている。


慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、
家康は二条城から大坂へ駒を進めた。


元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、
徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。


元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠
自らが藤堂高虎と共に行った。


元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。

行幸>
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築
が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。
作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当
した。


寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、
乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった
後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。


寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を
迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。

その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。
寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、
飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。
破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。


寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。

元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。

文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。
なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在
の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

<幕末
万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた

文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に
修復し、本丸には仮御殿が建てられた。


文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。

慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。
しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。


慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。
幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。


慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。
10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心と
する徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂して
いた。
軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名
が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答に
なる。
この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。


慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役と
なっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。
閏4月に太政官代は宮中に移転した。


2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。