【二本松城】
室町時代初期の興国2年(1341年)室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国は塩沢・殿地が岡に最初の居を
構え、地名を二本松と改称した。
二本松城の歴史は、畠山氏4代の畠山満泰が、応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年-1443年)に
この地に城を築城したことに始まる。この頃、畠山氏は二本松氏と姓を改めた。
二本松氏は陸奥国岩代地方に定着していたが、戦国時代になると伊達政宗が勢力を伸長し争うこととなった。
天正13年(1585年)9月、12代二本松義継は政宗に攻め立てられるが、政宗の父・伊達輝宗に降伏を申し出て
和議が成立した。
輝宗のもとに出向いた義継は、あろうことか輝宗を拉致し二本松城へ取って返した。これを聞きつけた政宗は、
輝宗もろとも義継を射殺した。和議は敗れ、政宗はすぐに二本松城の攻城を開始した。
守備側は義継の子・国王丸(のち二本松義綱)を継嗣に立て籠城した。城は政宗の猛攻によく耐えた。
しかし、翌天正14年(1586年)7月16日、政宗への内通者も出たため相馬義胤(十六代当主)の口添えにより義綱
は火を放ち二本松城は落城した。ここに二本松氏は滅亡した。
伊達氏の統治する二本松城には片倉景綱、次いで伊達成実を城代とし、二本松氏旧臣を統治させた。天正18年
(1590年)政宗は豊臣秀吉に会津地方を没収されると、二本松城は会津若松城に入った蒲生氏郷の支城となった。
氏郷は蒲生郷成、町野重仍を城主に据えた。慶長3年(1598年)蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入り下条忠親
が城代となった。
慶長5年(1600年)徳川家康に敵対した上杉氏は関ヶ原の戦の後、米沢城に移された。
会津には蒲生氏郷の子・蒲生秀行が入部し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。
元和8年(1622年)、本山豊前・本山河内が城代となり、のちに外池信濃守が城代となった。
寛永4年(1627年)蒲生氏が伊予国松山城に転封となり、会津には加藤嘉明が入った。二本松城には加藤氏与力の
松下重綱が下野国烏山城から5万石で入城した。翌寛永5年(1628年)重綱が没すると、その子・松下長綱は三春城
に移され二本松城には嘉明の二男・加藤明利|明利が入城した。
寛永20年(1643年)嘉明の子・加藤明成が改易となり、明利の子・加藤明勝も本家と同様に改易となった。
代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・丹羽光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を
備える為大改修を行った。
この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。藩兵の大半が白河口
に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到した。
手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。しかし、7月29日の僅か1日の
戦闘において落城した。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。
この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。