【名古屋城】

<戦国時代>
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる'''柳ノ丸'''が名古屋城の起源とされる。
この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年、織田信秀が今川氏豊から奪取し
「那古野城」と改名された。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男・織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城
に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。

<江戸時代>
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題など
から、徳川家康は1609年に、九男・徳川義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。
1610年、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。
縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は
加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、
岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年までに大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年の
間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城
小天守も移るという徹底的なものであった。
1634年には、3代将軍・徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。