【長岡城】
戊辰戦争の折城郭は城下共々焼失し、長岡城本丸跡地には現座、JR長岡駅が建っている。
市内悠久山に天守を模した郷土資料館があり、一見長岡城と勘違いしやすいが長岡城ではない。但し、資料館
石垣の一部に旧長岡城の石垣が使用されている。
長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が
古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。古志長尾家の長尾景信が没落した後は、上杉家
の直接支配を受ける。
その後、1598年に上杉氏が陸奥国会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟・堀親良が4万石を
与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の堀鶴千代が1606年に早世したため蔵王藩は2代で断絶した。
さらに1610年、宗家の堀忠俊が家老堀直次・堀直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、かわって徳川
家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。
1616年、今度は松平忠輝が大坂の役における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄
が8万石をもって蔵王に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川
からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して越後長岡藩を立藩した。
この城は、近世の城であって、難攻不落の中世型の名城ではなく、城まで攻め寄せられると、勝敗は事実上、決した
とも云えた。
直寄は2年後の1618年には越後村上に移され、かわって譜代大名・牧野忠成 (越後長岡藩初代)が6万2000石を
もって入封する。
牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、1620年には1万石を加増、さらに
1625年に新墾田2000石を表高に加えて7万4000石となる。
1868年の戊辰戦争(北越戦争)によって長岡城が失われた後、跡地は「遊覧場」と呼ばれ一種の公園の役目を
果たしていたが、鉄道敷設の際、停車場設置の候補地となり1898年(明治31年)に長岡駅が開業した。
現在は城内町、「大手口」などの名称に面影が残るのみである。