【武蔵松山城】

(築城)
室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって本格的に築城されたとされる。

(戦国時代)
室町時代から戦国時代にかけては、武蔵国中原の要衝として、関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された。
松山城を築城したと考えられる上田氏は当初扇谷上杉氏に部将として属したため、この城は東方の下総国古河に本拠
を構える古河公方および北方の上野国から武蔵国中央部への進出を狙う山内上杉氏に対する前線拠点として機能した。

後に北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が
成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって
攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に
成功した(松山城風流合戦)。
この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行なわれた。
しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が
滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく
縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。
なお、大田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする
説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張
することになったとされている。

永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条
氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次
国府台合戦へと発展した。この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間以後は一貫して北条氏
家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、同氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。


(安土桃山時代
天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐が行なわれた。城主上田憲定は小田原城に籠城したため、
代わって山田直安以下約2,300名が松山城に籠城、前田利家・上杉景勝の軍を主力とする大軍に包囲されて落城した。
当時の豊臣方の陣容を描いた布陣図には、真田昌幸・直江兼続らの名前も見える。

徳川家康の関東入国とともに、松平家広が入城して松山藩を立藩。慶長6年(1601年)に跡を継いだ松平忠頼が浜松藩
に移封されると空城になった松山城は廃城となり、この地域は川越藩の藩領となった。家広の入城から廃城までの時期
に交通の便が考慮され、搦手にあたる城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたとされる。
本来ここは松山城防衛の要となる方角であり、争奪戦の相次いだ北条氏時代までは橋が存在しなかった。

(江戸時代
幕末の1867年(慶応3年)になると川越藩主であった松平直克が前橋藩に移封となり、飛び地となった比企・入間地域
6万石余を統治するための拠点が必要になったが松山城は使用されず、西に約1.7キロメートル離れた平地に松山陣屋が
設置された。