【村上城】

臥牛山に初めて城が築かれた年代は定かではないが、戦国時代に、阿賀北の領主、本庄氏によって築城された
とみられている。当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された中世式の城郭であった。
永禄11年(1568年)、城主・本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻す。1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長で
あったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子・本庄顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで
講和を受け入れた。
慶長3年(1598年)、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。
村上氏によって始められた近世城郭への改築工事は、堀直寄の時代に完成を見た。堀氏の時代には3重の天守が
建てられ、また城下町の構えや町割りも整備された。
慶安2年(1649年)に姫路から松平直矩が入城。寛文年間に村上城は大規模に改修された。
天守、櫓等が新たに造り直されたが、ほどなく寛文7年(1667年)の落雷により天守等を焼失。以後、城主が
転々と変わったこともあり、天守が再建されることはなかった。
幕末の戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で意見が分かれて分裂状態となり、慶応4年(1868年)
官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。
庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。