【水戸城】
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により、建久年間(1190年
-1198年)に築かれたとされる。以後、馬場氏の居城となった。
このため、佐竹氏が入城するまで馬場城と呼ばれていた。
室町時代に入り、1416年(応永23年)に起きた上杉禅秀の乱で、当主の馬場満幹は上杉氏側に加担したが、室町
幕府側についた
江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。
江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立したが、ついに1510年(永正7年)、江戸通雅・江戸通泰の父子は主家と同格
の地位を得た。しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸重通は後北条氏側に加担し、逆に
佐竹義重 (十八代当主)佐竹義重・佐竹義宣 (右京大夫)義宣父子は秀吉軍に参陣した。
これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年
(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城の太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。
義宣は入城すると直ぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。
義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)、徳川家康より
出羽国久保田藩(20万5000石)に転封を命じられた。
同年に家康は、陸奥国を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く
没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
1609年(慶長14年)、頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、
廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充し二の丸に居館を構えた。
天守は構えず、破風などの飾りのない質素な三階櫓(内部は5階建て)を建造したのみである。
また、櫓・多聞も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。
(歴代城主の中で、頼房の三男・徳川光圀や9代藩主の徳川斉昭は名君として有名である)。
藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の徳川斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に
日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に
天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(慶応4年)には水戸城下で
戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。