【箕輪城】

永正9年(1512年) に当地を支配する長野業尚によって築かれた。
また、大永6年(1526年)業尚の子の長野信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり
山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。
戦国時代の上野には関東管領・山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、
相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場
であった。このようななかで信業の子・長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる
在郷武士団をよく束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。
業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。

永禄4年(1561年)11月、業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の長野業盛が家督を
継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首を
ひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」
と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。
近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。
永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼み
の上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。
こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種
が城代に任じられる。
元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊が城代となり、天正3年(1575年)長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、
その子内藤昌月が城代に任じられた。

天正10年(1582年)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し
箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。
内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っている。しかし、同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政と
その子・北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、内藤
昌月はこれに降り、北条氏政の弟・北条氏邦が箕輪城に入城した。

天正18年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。
この年、徳川家康が関東地方に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、
80余年の歴史に終止符を打った。

昭和62年(1987年)12月17日、国の史跡に指定。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に選定された。