【松山城】
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。日本三大平山城にも
数えられる。山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。
この中では、姫路城と同じく、連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられる。
1933年ごろまでは、本丸部分には40棟の建造物が現存していたが、1949年までに19棟が火災により失われ、現存
建築は21棟にまで減少した。建造物の現存数は二条城(京都府)の28棟に次ぐものである。幕末に再建された大天守
ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、深さ44メートルにおよぶ本丸の井戸などが
保存されている。
山頂に本丸、南西麓に二之丸、続いて三之丸。北麓には北曲輪、南東麓に東曲輪がある。
三之丸は比高6メートルほどの土塁で囲み、北と東に石垣造の虎口を開く。本丸から二之丸にかけて登り石垣を築いて
囲み、丘陵斜面からの大手城道への侵入を防ぐ構造としている。山頂の本丸北部には本壇という天守曲輪を持ち、
大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結し連立式天守をなしている。
●1602年(慶長7年)
伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立
重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した。
●1603年(慶長8年)10月
加藤嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
●1619年(元和5年)
武家諸法度違反による福島正則の改易により、幕府の命を受け、加藤嘉明が広島城受領のため赴く。
●1627年(寛永4年)
加藤嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。
●1634年(寛永11年)8月
蒲生忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶する。
そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。
●1635年(寛永12年)7月
松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。
●1642年(寛永19年)
創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。
●1784年(天明4年)
天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。
●1854年(安政元年)2月8日
第12代藩主・松平勝善が大天守以下、本丸本壇を再建。
●1868年(明治元年)
土佐藩が松山城を受領・保護(藩主は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される)。
●1870年(明治3年)
失火により三之丸焼失。
●1871年(明治4年)
廃藩置県により松山藩から松山県となる。失火により二之丸焼失。
●1873年(明治6年)
廃城令による処分により大蔵省、内務省所管となり、主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられる。
建物の解体は行われたが、入札はなかった。同年、愛媛県が成立。
●1874年(明治7年)
本丸一帯を聚楽園という公園とする。
●1886年(明治19年)〜1945年(昭和20年)
二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。
●1891年(明治24年)
俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表する。また、1895年(明治28年)には、「春や昔
十五万石の 城下哉」の句を詠む(JR松山駅前に句碑がある)。
●1923年(大正12年)
松山城(本丸)が旧藩主家の久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。