【松代城】

〜 戦国時代・安土桃山時代 〜

正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の上杉謙信
との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として
整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて
築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。
文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成している。
築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。
海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、永禄4年9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると城代の春日
虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われた
という(第四次川中島の戦い)。
また、海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱は郡代的権限を
持っていたと考えられている。
武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となる。長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを
住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却する
事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。
以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後
は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。
甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から
二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河国・江尻城が、平山城と
しては信濃国・岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

〜 江戸時代 〜

*1600年(慶長5年)
この年2月に田丸直昌の後釜として森忠政が入封。同時に豊臣家の蔵入地では無くなる。
この時、海津城から'''待城'''へと改名される。

*1603年(慶長8年)
森忠政が美作国へと加増転封されると松平忠輝が入封する。忠輝は加増されて高田藩主となるが松代も引き続き領有
したために、家老・花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力した。
この忠輝領主時代に待城から'''松城'''へと改名されたという。忠輝以後は松平忠昌、酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)と
続く。

*1622年(元和8年)
 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。

*1711年(正徳元年)
 幕命により'''松代城'''と名を改められた。

*1717年(享保2年) 
 火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失する。

*1718年(享保3年) 
 幕府より1万両借財、再建する。

*1742年(寛保2年) 
 戌の満水により被害を受ける。城主が松代南にある開善寺へ船で避難する。

*1752年(宝暦3年) 
 藩の執政原八郎五郎により城の北側を流れていた千曲川を瀬直しする。旧流路は百間堀となる。

*1770年(明和7年) 
 花の丸に御殿を移す。

*1804年(文化元年) 
 御蔵屋敷北側に新堀造られる。

*1828年(文政11年) 
 城地北側に佐久間一学(象山の父)により土手を築く。真田幸貫により「不崩(かけ)ずの土手」と名付けられる。

*1853年(嘉永6年) 
 火災により花の丸御殿を焼失する。その後再建される。

*1864年(元治元年) 
 城外御殿として新御殿(真田邸)建てられる。

*1872年(明治5年) 
 廃城。跡地は藩士に払い下げられ畑に変えられる。

*1873年(明治6年) 
 火災により再び花の丸御殿を焼失。多くが宅地となる。

北西に戌亥隅櫓台(天守台)があるが天守相当の櫓は近世初頭には失われたようで、本丸には幕末まで四隅に二重櫓
が上がっていた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。