【丸岡城】

全国に12箇所しか現存していない天守閣、それも江戸時代以前に建造された貴重な天守を有する城郭の一つである。
(現存天守、国の重要文化財)
天正4年(1576年)に越前の領主・柴田勝家の甥である柴田勝豊により、福井平野に浮かぶ小高い独立丘陵という
絶好の地形に築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。天正10年(1582年)本能寺の変の後の清洲
会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
天正11年(1583年)柴田勝家は豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、
丸岡城主・青山宗勝を置いた。宗勝の子・青山忠元は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方につき改易された。
越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には結城家家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
しかし盛次は慶長17年(1612年)に起こった越前騒動に連座し失脚となった。
代わって”鬼作左”本多重次の嫡子・本多成重が4万3千石で新たな城主に据えられた。成重は寛永元年(1624年)秀康
の子・松平忠直が不行跡により豊後国へ配流となると、そのまま大名に列し丸岡藩が成立した。
元禄8年(1695年)4代・本多重益の時、お家騒動が起こり改易となった。
代わって有馬清純が越後国・糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏6代の居城となり明治維新を迎えた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。