【桑名城】
戦国時代の桑名の地には土豪が蟠踞し伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城の桑名三城と
呼ばれる城があった。
現在の桑名城は東城があった辺りであり、永正10年(1513年)に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源
と考えられている。天正2年(1574年)織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が三城を配下に置いた。
その後、豊臣秀吉の時代になると織田信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と支配者が
目まぐるしく入れ替わった。
関ヶ原の戦い後、覇者となった徳川家康は慶長6年(1601年)徳川四天王の本多忠勝を桑名10万石に封じた。
忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始した。城には船着場も整備し、4重6階の天守をはじめ51基の櫓、
46基の多聞が立ち並んだ。また同時に城下町も整備された。築城開始当初には四天王の一人である井伊直政も家臣
を動員して普請の応援を行ったという逸話がある。
元和3年(1617年)2代・本多忠政は姫路藩に移封となり、代わって松平定勝が入城。
松平定重の時代、元禄14年(1701年)には桑名市街地の過半を焼く大火に遭い、この際に天守も焼失し以後再建は
されなかった。
宝永7年(1710年)定重は越後高田藩に移封となり、代わって松平忠雅が入城し7代続いた後、文政6年(1823年)
に忍藩に移封となった。代わって松平定永が入城。先に高田に移封となった久松家の再入城となった。
この際に藩祖である松平定綱と実父・松平定信を祀る「鎮国守国神社」を城内に勧進した。
幕末には最後の会津藩主・松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を
預かった。大政奉還の後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。
藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士
の猛反発にあい、結局は無血開城した。明治政府軍はこの際に桑名城を焼き払い開城の証とした。
松平定信没後100年にあたる昭和3年(1928年)に本丸・二之丸一帯を整備し九華公園とした。
昭和17年(1942年)には三重県の史跡に指定された。