【櫛崎城】
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後に毛利氏が防長2国に減封されると、その内から毛利秀元は3万6千石を分知
され、長府藩の始まりとなった。元和元年(1615年)「一国一城令」で城は破却され、新しく陣屋である館が
営まれた。館は城に隣接する現在の山口県立豊浦高等学校のある敷地で、ここでの陣屋支配は勝山城に移るまで
続いた。
文久3年(1863年)海上から砲火を避けるため新下関の古城祉の一角に新しく館が構えられた。
これが勝山御殿である。しかし、陣屋機能は勝山に移ったが、櫛崎城は再び今度は近代要塞として利用された。
廃城後もそのままにしておいた高石垣が囲む本丸は台場となって馬関海峡の監視台を兼ねた砲台を並べた要塞と
なった。
この櫛崎城の台場には、24斤砲2門、18斤砲3門が常備され、勝山御殿に長府藩が移った後は、伊秩主馬が主将と
なって、長府藩兵100余名によって台場を守備、外国戦艦を迎撃した。
元治元年(1864年)馬関戦争の折には連合軍側の主要報復攻撃の要の一つであった。