【熊本城】
加藤清正は、1591年(天正19年)から茶臼山丘陵に千葉城・隈本城も取り込んだ壮大な城郭を築きはじめる。
1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。
1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。
広さ約98万平方メートル。周囲約5.3キロメートル。南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井
川・井芹川を切り離して内堀とした。本丸は丘陵の東の最も高い部分に作り全面石垣積みとし、西にゆるやかに
下る二の丸・三の丸は重点箇所のみを石垣とし経費を抑えた。清正は藤堂高虎とともに築城の名人として知られる
が、特に石垣の技術に優れており、熊本城・大坂城・名古屋城は日本三名城と呼ばれる。
その石垣は上部に行くにしたがって反りが特徴的な'''武者返し'''と呼ばれるものである。熊本城で使用されている
武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術を元にしたものである事は
よく知られている。
1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で'''本丸御殿'''の建築が
行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前・小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり
熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。
忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に広大な'''花畑屋敷'''を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。
幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の三つの勢力があったが、明治維新後の1870年(明治3年)進歩的な
実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。
これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日に
なって解体の方針は凍結されることになった。
藩知事・細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の
相違があったためといわれる。
代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。
廃藩置県後は、熊本鎮台がおかれた。1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官・種田政明
などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。
「西南戦争」では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。
西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守など
多くの建物を焼失した。田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官・谷干城の指揮の下よく攻撃
に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、
誰一人として城内に侵入する事ができなかったという。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。