【久保田城】

久保田藩初代藩主である佐竹義宣 (右京大夫)は秋田転封の際、はじめは安東氏(秋田氏ともいい、佐竹氏と入れ
替わるように常陸に転封)の居城出羽湊城に入城したが、湊城は平城で防衛に向かない上に狭かった。
ゆえに、翌年には湊城の南東にある久保田神明山の地に新たな城を築城し、慶長9年(1604年)の久保田城竣工
と同時に久保田城を新たな本城と定めた。また、築城と同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道の整備も
行っており、他の藩に通じる主要道は1604年内に、また城下町と藩内の主要道は寛永7年(1630年)頃に完成
した。
久保田城は天守を持たず、かわりに櫓を設置した。石垣もなく、代わりに土塁を当てている。
明治4年(1871年)、町名を久保田から秋田に改称した。久保田藩は戊辰戦争の際に官軍を支持したため、久保田
城は破壊を免れたが、明治13年(1880年)の大火でほとんどの建造物が炎上焼失した。
その後、市街再建の過程で堀の多くは埋め立てられ、官庁街へと変貌した。現在、久保田城のあった一帯は千秋
公園となり、緑の多い県民会館や市立図書館「明徳館」、平野政吉美術館などが整備されている。
建造物としては、前述の大火を逃れたが御物頭御番所が現存し、本丸新兵具隅櫓、本丸表門が再建されている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。