【後楽園】
現在、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は1597年(慶長2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主で
あった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものである。この時、旭川
を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく
東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えたのである。これにより、城と城下町の防御は
強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされること
になる。
藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政の治世となる。
池田綱政は父・光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建
のために新田開発はもとより、放水路・百間川の開削などの抜本的な洪水対策を行い、藩の財政を再建させた。
1686年(貞享3年)ごろに百間川が完成し、藩の財政にも余裕が生じてきたため、綱政は永忠に命じて城北側の
旭川沿い低湿地および宇喜多秀家によって集められた小姓たちが居住していた「小姓町」に自らの休息のための
庭園を造るよう命じた。
岡山藩士・斎藤一興の『池田家履歴略記』には「曹源公御遊休の園をひらかれんため簸川の東、御野郡・上道郡
の内にて、御野郡は浜村の内上道郡は国富村の内、城北にあたって其の地を卜せられ、津田重次郎諸事奉行し……」
とある。
池田家史料によると、1687年(貞享4年)12月に着工し(鍬始め)、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木
工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していった。藩主・綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、
工事開始4年後の1691年(元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労
をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられる。
途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、
1700年(元禄13年)に一応の完成をみる。
なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、1695年(元禄8年)頃には
城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになった。
御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ
変えられていった。また、当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、
1771年(明和8年)に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在の
ような景観に変化していった。
御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、
他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待していた。御後園で岡山
藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年
(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録がある。
また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていた。
1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡った。
翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)2月7日に藩知事に就任して
いた池田章政が日を限って一般に開放した。この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』
にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めた『先憂後楽』とは、
「天下の人々が憂えるのに先立って憂い、天下の人の楽しんだ後から楽しむ」という意味であり、儒教精神に基づく
忠国の情を意味する言葉とされる。東京都文京区にある水戸徳川家の小石川後楽園と由来を一にする。
しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年7月14日には
嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなった。
その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地
は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診した。1883年(明治16年)12月22日から27日にかけて開催
された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の
議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、1万2500円で
買い取ることを決定した。
後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、
「日本三名園」の一つとして挙げられ多くの人々で賑わっていた。
こうして明治以降も江戸期の姿をそのままにとどめていた後楽園であったが、太平洋戦争中の1940年代前半には
食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには1945年(昭和20年)6月29日の岡山
空襲により、延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失した。
終戦後の1947年(昭和22年)頃には進駐軍の宿舎として使用され、園内には花葉の池の北に25メートルプールが
造られていた。進駐軍の撤退後は再び岡山県の所有となり、およそ2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元。
1954年(昭和29年)6月1日からは有料として一般に公開されるようになった。
1967年(昭和42年)に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻した。