【国府台城】

扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が1478年(文明10年)12月の千葉氏内紛の際に千葉自胤を援けて下総
国境根原での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まる。この際に城地として相応しいと見立て、
翌年に臼井城の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残る。
国府台城は要所であるが故に後北条氏、千葉氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台と
なっており、争奪戦が繰り返され城もまた堅固な城郭として整備された。
しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。
江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている。
1727年(享保12年)に徳川吉宗によって、関宿からこの地に曹洞宗安国山總寧寺が移され、明治18年には
陸軍教導団病院が設置された。また太平洋戦争時に總寧寺と江戸川に挟まれた樹林には、陸軍の手で多くの
防空壕が作られた。
その後、昭和33年9月にこの付近は「里見公園」として整備され、桜の名所となった。
そのため、特に病院の跡だった城の南半分は原型を留めていない。残りも多くは住宅街となっているが、堀切
や空堀、土塁跡はよく残っており、櫓台の跡も確認できる。