【弘道館】

天保12年(1841年)7月に完成し、8月1日(9月15日)に仮開館(本開館は安政4年5月9日)。
第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた(弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷
地であった)。初代教授頭取には、会沢正志斎と青山拙斎が就いた。建造は戸田蓬軒が務めた。
また、経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の
精神が漢文で書かれている。武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。

学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても行われていた。
また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校
としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育政策が
うかがえるといわれている。通常卒業の概念が設けられているものが多いが、学問は一生行うものであるという
考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。

また、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には一定水準以上の学力
が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が合致するような人材を育成するという
目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた

明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。
慶応4年(1868年)4月、謹慎中の徳川慶喜は江戸開城の合意事項に沿って水戸に引き移り、弘道館の至善堂に
入った。しかし当時水戸藩では藩主慶篤が病没して藩主不在の混乱状態であり、慶喜が紛争に担ぎ上げられること
が予測されたため、7月慶喜は静岡に移った。改元して明治元年10月1・2日(1868年11月14・15日)には会津
戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと
大手門を挟んで戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。
1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。

弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年
(1945年)8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書について
は、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、
水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託
などで管理を行っている。

また、徳川斉昭の意向により設立当初から多くの梅樹が植えられ、その由来が『種梅記』の碑に記されている。
斉昭の漢詩『弘道館に梅花を賞す』には「千本の梅がある」とある。現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植え
られており、梅の名所となっている。 なお、弘道館と同じく梅の名所である偕楽園は、弘道館に対し、心身保養
の場として対に作られたものである。