【鬼ノ城】

鬼ノ城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いたとされて
いるが、史書に記載が無く、築城年は不明である。しかし、発掘調査では7世紀後半に築かれたことが判明して
いる

鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容
の7〜9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の
面積は、約30ヘクタールである。城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼1か所・水門6か所などで構成される
そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことであった。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡
1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されている。「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、西門と
角楼や土塁が復元された。その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山
ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されている。

城壁は、幅7メートル×高さ6〜7メートルの版築土塁が全体の8割強を占める。
しかし、城壁最下の内外に1.5メートル幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強い。そして、防御正面の2か所
の張り出しは、石垣で築かれている。流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中する。
城壁下部の2〜3メートルに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所ある
他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門である。また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状
遺構が発掘された。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物である。そして、第0水門の
城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土した

城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開く。主の進入路と思われる場所に西門があり、
西門の北側約60メートルの隅かどに角楼がある。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。
西門は平門構造で、他の門は懸門構造である。東門は間口1間×奥行2間で6本の丸柱構造。南門は間口3間×奥行
2間で12本の角柱構造。中央の1間が出入り口で、本柱は一辺が58cm角である。西門は南門と同じ柱配列で、本柱
は一辺が60cm角である。そして、門道の奥に4本柱の目隠し塀がある。北門は間口1間×奥行3間の8本の柱構造。
本柱は一辺が55cmの角柱で、他は丸柱である。そして、門道に排水溝が埋設されている
また、西門周辺と角楼に至る土塁上面の柱穴の並びは、板塀のための柱跡とされている

城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が
発掘された。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土
する。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などがある

鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっている。未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城といえる
鬼ノ城の南麓の低丘陵が南北から突出して狭くなった田園地帯に、水城状遺構がある。
版築状の土塁で、長さ約300m×高さ約3m×基底部幅約21mを測り、土塁の上部に人々が集住する。
水城と大野城の関係と同様に、鬼ノ城への進入路を遮断した軍事施設とされている

瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路である。東端の難波津(港)の西方、約180キロメートルに
吉備津(港)は位置する。吉備津の西方、約240キロメートルに那大津(港)の博多湾がある。吉備津は、東西
航路のほぼ中間点に位置する。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から
約11キロメートルである。

鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていた。苔むした石垣が散在する状況
から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいた。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の
文字をあてたにすぎない。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、彼の地と此の地との言葉を重ねた名称である
礎石建物群の周辺では、仏教に関わる瓦塔・水瓶・器などの遺物が出土している。鬼ノ城の廃城後の飛鳥時代から
平安時代にかけて、山岳寺院が営まれている

鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できる。児島半島の前方は瀬戸内海、海の
向こうの陸は香川県である。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野にいる

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。