【兼六園】
江戸時代、加賀藩の庭園として造られたことに端を発する。延宝4年(1676年)に5代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を
造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりとされている。これは、蓮池門(れんちもん)を入った辺りであり、
現在7つある門の中で正門とされている。当時は、金沢城の外郭として城に属していた。南端(石川門と反対側)に
ある山崎山は、惣構土塁の一部である。
13代藩主前田斉泰が現在のものにほぼ近い形にしたとされる。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃である。
名称は宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』の中で、中国洛陽の名園「湖園」を謳った「宏大・幽邃・人力・蒼古・
水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」に倣い、文政5年に白河楽翁公(松平定信)によって命名された。
とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。
これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望
を両立させている。
春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩と
して情緒を添える。霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、
兼六園を代表する景観となっている。
園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管
で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。そのため、水が噴き上がる最高点は、ほぼ霞が池
の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。
11代藩主前田治脩が翠滝、夕顔亭を、12代藩主前田斉広が竹沢御殿を建設した。13代藩主前田斉泰は竹沢御殿を取り
壊し、天保8年(1837年)霞ヶ池を掘り広げて増庭させ、栄螺山を築いた。
園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存する。
なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」を由来としている。
長らく殿様の私庭として非公開であったが、1871年から日時を限っての公開が始まり、1874年5月7日から正式に一般
公開された。1876年には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。
同年、園内の山崎山麓にあった異人館と成巽閣を利用して、常設としては国内初の博物館である金沢勧業博物館が
開かれた。同館は1909年に廃止されるが、その間1879年に図書館が、1887年に金沢工業学校(後の石川県立工業
高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。また、1880年には西南戦争の戦没者を祀る明治紀念之標
が建てられた。
こうして明治以降に構造物が付加されたことが、1922年名勝に指定されたものの、特別名勝に指定されない一因と
なっていたが、その後の上記施設の移転などの整理と整備により、1985年特別名勝に指定された。
開園以来、無料で24時間開放されていたが、深夜何者かによって徽軫灯籠が破壊されるなどの事態が発生した
(当時のものは別のところに保管されている。現在の灯籠(灯篭)は新造された物)ことや維持、保存費用の捻出の為
に1976年から後楽園や栗林公園に倣って有料とし(お盆休みなどには無料開放されることもある)、時間を限って公開
されるようになった。