【唐沢山城】
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を
築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧
した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した
天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、
6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。
鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかに
されている。
秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。
室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。
当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。
謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが
起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。
天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・
皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も
降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を
結んだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。
文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。
慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説
として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を
見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。
また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。
明治16年(1883年)有志により本丸跡に唐沢山神社が建立された。
昭和30年(1965年)栃木県立自然公園開設。昭和38年(1963年)栃木県唐沢青年自然の家開所。
平成26年(2014年)3月18日、城跡が国の史跡に指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。