【観音寺城】

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。
標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の
屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も
置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ
抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、
お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に
信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。
一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後
もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある


2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。