【金ヶ崎城】

☆歴史☆

*1336年(延元元年/建武3年)10月13日、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田
 義貞が入城、直後、足利方の越前守護・斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。
 翌1337年(延元2年/建武4年)2月5日、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城で体勢を立て直す。
 2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。
 3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。
 尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。

*1338年(延元3年/暦応元年)4月には越前の軍事的主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前
 平定により、越前守護代・甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。

*1459年(長禄3年)5月13日、守護・斯波氏と守護代・甲斐氏の対立が深まり(やがて長禄合戦に発展)、古河
 公方・足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、
 義敏方は大敗した。この戦いは征夷大将軍・足利義政の怒りを買い義敏は失脚した。

*朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。

*1570年(元亀元年)4月26日、援軍が遅れた為、郡司・朝倉景恒は織田信長に対し開城する。
 しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らに殿
 (しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。(金ヶ崎の退き口)