【亀山城】

【鎌倉時代 - 戦国時代】
伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。
神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。その後、関氏の時代
のうちに現在の位置に移され、永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。
天正11年(1583年)には蒲生氏郷が城主となっている。天正18年(1590年)に、豊臣秀吉に従った岡本宗憲が
入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。

【江戸時代】
江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城となった。江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体する
よう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されている。またこの時期の亀山城は幕府の宿所としての
役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に
度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。寛永13年(1636年)、城主となった本多俊次の手で
大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。

【明治維新以降】
明治維新以降は、明治6年(1873年)のいわゆる廃城令によって、殆どの構造物が取り壊された。
このため現在は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など一部が残るに過ぎない。ただ、多聞櫓は原位置のまま残る中核的
城郭建築として三重県下では唯一の遺存例であり、現存する多聞櫓として全国的にも数少ない存在であるため、本丸
南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、「旧亀山城多聞櫓」の名称で三重県の史跡に指定されている
また、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築されている。