【掛川城】

室町時代の文明(1469年-1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝え
られている。
そのまま朝比奈氏が城代を努め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。
ところが、1568(永禄11)年、朝比奈氏の主家の今川氏真が甲斐の武田信玄・三河の徳川家康の両大名から挟み
撃ちに遭い、当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。
しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。
氏真と泰朝は1569(永禄12)年2月8日に掛川城を開き、相模の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の
重臣・石川家成・石川康通|康通親子が入った。間もなく駿河に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に
程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の
舞台となった。しかし掛川城は武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。
その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣で
あった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入った
が、最終的には太田氏が入り、何度か城の修築も行われている。
幕末に、東海地方一帯を大地震が襲い、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。
この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。